2016年2月5日金曜日

おわりに(結論)

 本稿では、感情は生存戦略のメカニズムであるという観点に立ち、そのメカニズムを神経科学、感情の進化、感情と認知プロセスなどの視点より捉えて、人間の思考と行動の背景とその意味を考察してきた。それは現代の私たちが知覚できる人間の思考と行動の背景と意味を改めて問い直し、理解を深めることに繋がった。

 以下、序論において挙げられたいくつかの問いに答える形で、本論で得た知見をまとめてみる。

 まず、感情が有害で、妨害因と考えられる感情を抑制できず、意識的なコントロールが及ばない現象については、扁桃体の情動反応と、前頭皮質の制御のメカニズム、進化史の視点から説明される。
 それは、野生環境に適応的だった緊急の危険から身を守るための皮質を経ない扁桃体の瞬時の反応が、緊急の危険を制御している文明環境ではさして危険がないにもかかわらず、扁桃体の粗雑な情動的刺激の検出と指令による反応が起きるという情動反応のメカニズムによるものである。その結果、状況との不適合が起きてしまうのである。

 しかし、一方で私たちは扁桃体を制御する前頭皮質を発達させ、緊急時の生体を守る反射的反応を残しつつ、状況との不適合の結果を皮質が直後だけでなく長期的に修正をはかるという目標維持や意思決定を行う感情制御のメカニズムを身につけている。このことの意味は非常に大きいと思われる。
 扁桃体による身体反応を手がかりとして、サブリミナル知覚や無意識に蓄積した記憶や認知の歪み、ストレス状態など、非意識過程における心身の状況を意識上で把握し、前頭皮質の働きかけの長期的な戦略によるコントロールも一定程度可能だということである。

 序論で問題意識として述べた、如何に感情を適切にコントロールするかの答えの一つがここにある。それは、感情の生起するメカニズムを知り、自分の感情状態をモニタリングして客観的に捉えて直し、失敗や誤認について次の機会に備えるプロセスを持つことに他ならない。
 それは前頭皮質を発達させた人間だけができる高次な認知と感情の統合作業でもある。その意味では、扁桃体の反応は、その時点での認知や感情状態を知る有力な情報を与えてくれる心のシグナルとも言える。

 また、ネット上に溢れる過剰な感情表出や自己主張、感情的な議論については、いくつかの視点で説明できるが、一つには第二章の感情の適応プログラムで取り上げたように、「見えない縄張り」を守るための主張的自己呈示(好意獲得、自己宣伝、威嚇)欲求の表れであるとも考えられる。

 進化心理学でみる自己呈示欲求とは、「自分の得意な技能を表明し集団に貢献すること」33)であるが、狩猟採集時代には集団のメンバーの自己呈示欲が強いと集団の協力が促進され、適材適所により競争に強い集団が生まれた結果、その集団メンバーはより生き延びに有利だったと解釈される。
 この自己呈示によって仕事が与えられて集団に貢献することで、集団のメンバーから「承認」されるかどうかは死活問題だったとされる。それが認められないと不安を感じ、何としても認められたいとする欲求を持つのは、現代人の心にも組み込まれている34)と考えられる。

 こうした野生時代に作られた心が現代のネット上での盛んな自己呈示と承認欲求にも表れているとみられ、それはごく自然な感情として理解できるものである。

 しかし、この自己呈示欲求は、更に「自己呈示➡承認➡貢献➡賞賛➡達成感」35)という社会の中で自己実現を求める欲求へと繋がるが、100人程度の集団で協力活動をしていた狩猟採集時代に適応的だった野生の心が、やはり現代社会においてそのまま通用しないことで、様々な社会的な不適合を起こしているとも考えられる。
 
 特に集団が大規模化し、選択的で流動的になった結果、個人の貢献は見えにくくなり、代わって現代のネット社会が自己呈示と承認欲求を満たす場にもなっているが、根底には本来集団や社会における貢献と称賛、達成感を求める感情が隠されているとも解釈できる。
 そうした欲求に応えるべき社会環境の不備が、特に若者の不満やフラストレーションとなって様々な事件を惹起させることにもなる。

 野生環境に戻ることのない現代人にとって、進化的に見れば1万年前の野生の心を持ったまま文明環境にどのように適応していくかという視点は、現代社会と進化的な準備がない現代人の様々な思考と行動を解釈し、理解する上で重要であると思われる。

 更に、もう一つの問題意識であった、どのようにクリティカルな思考力を身につけるか、については、如何に感情をコントロールするかと同様に、思考プロセスについて知る、そして自分の思考プロセスをモニタリングすることが重要であると思われる。

 そもそもクリティカルな思考とは、思考を思考することでもある。第三章の感情と認知プロセスでみたように、私たちの認知や判断において感情の混入は避けられず、むしろヒューリスティクスのように非意識過程において感情を活用することによって、曖昧な状況下でも判断力を失わずに合理的で適応的でいられることが分かっている。
 常に合理的に判断し行動する人間自体が、もともと存在しないのである。

 最も重要な点は、その判断において潜在認知を含めて自分でも気がつかないバイアスが常にかかっていることを認識することである。
 クリティカルな思考力を高めるためには、こうした直観や経験則を利用しつつ、まず自分自身のバイアスについて批判的に点検することである。
 ただし自分のバイアスを気づくのは限界があるので、他者とのコミュニケーションや議論を通じて知ることが大切であると思われる。
 
 しかし、実際の議論となると感情的で、他者の意見を受け入れ難くなりやすい。
 
 
 そこで、行動経済学の誕生を導いたダニエル・カーネマンは、「ほとんど誰一人として間違いを認めようとはせず、また他人から何かを学んだことも認めようとしない」、「誰の考えも変えることのない議論というものが、私は大嫌いだ」とし、「対立的協力」という、議論をより効率的に行うプロセスを提案している。
 批判―回答―応答の形式の議論ではなく、対立する相手と共同研究を行うことによって議論するための誠実な努力が必要になる。不快なコメントをやり取りする代わりに一緒に論文を書くことにした36)、というのである。

 暴力とは無縁なはずの議論において、しばしば問題解決の目的を見失った臨戦態勢の激しい感情的対立を生むことがある。「見えない縄張り」を守るために必死になってしまうのであろう。
 しかし一方では、このような人間の知恵によって、問題解決の目的を第一とする議論を構築することもできるのである。

 それは小さなアイディアの一つかも知れないが、このような人間の課題解決を目指し、答えを得ようと模索する思考と行動を引き出すのは、人間に生得的にプログラミングされた感情の作用に他ならない。
 感情は目的遂行の妨害因になるだけではなく、常に「生物学的生存または社会的生存に関係するさまざまな課題を解決」するよう人間を動機づけ、行動を促すものである。

 感情をどのような方向に導くかが、より良く生きようと希求する人間の叡智にかかっていると言えるだろう。