2016年2月5日金曜日

第3章 感情と認知プロセス

 ここまで神経科学と進化論によるアプローチから感情をみてきたが、意識的に知覚できる部分は主観的な感情経験のみであり、感情の働きの多くは、非意識過程で自動的に処理されていることが分かる。

 認知プロセスについても同じことが言え、かつては理性の働きであるとされた推理、記憶、思考、解釈、判断、意思決定などを処理する認知プロセスは、自動的に感情から影響を受けたり、無意識的に感情を利用したりしているのである。

 例えば、フォーガス(For-gas, 1995, 2001)が提唱した感情と判断の関係を包括的に説明する「感情混入モデル」27)では、処理される課題の難易度や重要度などの条件によって、主体の判断への感情の影響の大きさが異なることを示した。
 それは、感情の影響を受けにくい処理方略(直接アクセス処理・動機充足処理)と、感情の影響を受けやすい処理方略(ヒューリスティック処理・実質的処理)に分類される。


(大平英樹編:感情心理学・入門.p.108,有斐閣アルマ,2010年.)

 直接アクセス処理は、過去の経験や知識、信念をそのまま呼び出して判断に適用し、動機充足処理は、はっきりした目標や動機づけがある場合、それを最優先させるような判断が行われる。この2つの処理方略は感情の影響をほとんど受けない。
 
 これに対し、ヒューリスティック処理は、強固な信念や動機づけがなかったり、正しい決定が不明確であり判断の手がかりがなかったり、熟考して判断を行う余裕がなかったりする場合に、判断対象のごく限られた情報だけに基づいた簡略な処理が行われる。この処理では、情報としての感情仮説が想定するような強い感情の影響が生じると考えられる。
 一方、実質的処理は、同じように信念、動機づけ、明確な判断手がかりがなくても、課題が重要である場合に採用される。この処理では、新たに多くの情報を取り入れ、既存の知識と照合しながらそれらを評価する心的作業が必要となる。こうした場合には、情報の評価、記憶に感情の影響が混入しやすくなる、という。

 中でもヒューリスティック処理は、膨大な量の情報が様々なレベルで行き交う現代社会に適応していくために、私たちが日常的に利用する有効で有用な処理方略と言える。
 なぜなら、普段物事を判断したり、意思決定したりする際に、私たちは様々な可能性を比較考慮できるほどの情報が得られるわけではなく、また、正しく対象を評価するほどの知識を持たないことも多い。そして、厳密な論理で一歩一歩答えに迫るアルゴリズムでは、時間がかかって非効率的すぎるのである

 その点、ヒューリスティクスは、外から内から押し寄せる刺激に対して、無数の策略が驚くほど一つにまとまって、環境からの刺激に即座に応じるためのデータを瞬時につくりあげる。この「第六感」は私たちが生き延びるのには欠かせない28)のである。

 ただし、通常その処理は正確な意思決定に繋がるが、直観はスピードがある分だけ精度に欠け、判断に使えるヒューリスティックが限られているため、誤りやバイアスに繋がる場合もある。

 ヒューリスティックとバイアスについては、エイモス・トヴェルスキー(Amos Tversky)とダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の共同研究が有名である。
 その研究によるとヒューリスティックは、①典型的と思われるものを判断に利用する「代表性」、②日常的に簡単に利用できる情報で判断してしまう「利用可能性」、③最初に示された特定の数値などに縛られてしまう「固着性」など29)の3つ面があるとする。

 こうしたヒューリスティクスによるバイアスの他にも、正常性バイアスや自己奉仕的バイアスなど幾つかの認知バイアスが報告されている。
 いずれも不確かな状況や問題解決場面において、無意識下で処理される自動的な生存戦略にとって適応的な型にはまった反応図式であるがために、意識的な修正が効きにくく、場合によっては非適合的であり、潜在的な認知に自ずと左右されやすいという側面をもっている。

 潜在認知とは、自分では気がつかないサブリミナル知覚や、知覚内容や行動内容は意識にのぼっていてもその本当の原因が分からない、あるいは原因について誤った考えを持ってしまうという因果関係が見えないケースや、学習が進行していることに気が付かない潜在学習など30)を指す。
 そこに潜在レベルの情動系が、神経連絡を通して影響を及ぼしているが、顕在レベルの認知系や情動系からのフィードバックもあり、それぞれの相互作用による複雑な認知プロセスが展開していると考えられる。

 高度情報化文明社会に生きる私たちは、過剰な刺激と情報に晒され、膨大な量の情報処理に追われる中で、日常の思考や行動を中断せずに支障なく生活を送られるのは、その殆どの情報処理が潜在意識過程でなされているからである。

 しかし、そのプロセスでは、「サンプリングバイアス」という送り手が選んで流す情報を、自分では知覚できないまま取り込んでいたり、受け手の「動機のバイアス」という自分の信じたい情報だけを受け入れる傾向から、その方向の情報だけを記憶したりしており、それが自動的に意識にのぼって無自覚に普段の思考や行動に投影させることにもなる。それだけ潜在的認知は情報操作を受けやすいという弱点があるのだ31)

 しかしながら、判断におけるバイアスを研究してきたカーネマンが語るように、直観と思慮深い考察との相互作用に目を向け、「その相互作用によって、時にはバイアスのかかった判断をすることもあるし、また時にはそれを上書きして修正する場合もある」32)のであって、それを自覚しての意識的な認知プロセスが、潜在過程に働きかけてバイアスを緩和することも可能なはずであろう。