1.感情の定義と概念
『感情心理学・入門』(大平英樹編:有斐閣アルマ,2010年)では、「感情を厳密に定義するのは難しく、心理学において一般に認められた標準的な感情の定義というものは存在しない」と前置きした上で、「人が心的過程の中で行うさまざまな情報処理のうちで、人、物、出来事、環境についてする評価的な反応」(Ortony,Clore,&Collins,1988)という定義を採用している。
評価とは「対象を、良い―悪い、危険―安全、有用―有害、好き―嫌い、などの軸に位置づけ、認識すること」であり、反応とは「対象による脳や神経、身体器官の作用から、潜在的な行動の準備状態の形成、顕在的な表情や行動の表出、主観的な心的体験まで、広い範囲を含む」とされる。
そして、「感情とは、自分自身も含めてあらゆる対象について、それが良いものか悪いものかを評価したときに人間に生じる状態の総体」とまとめられている。
また、感情に関する用語の概念や分類、その使い方も研究者の研究領域によって微妙に異なり、各用語が互換的に使用されることも少なくないなどが指摘されている。
特に、「情動(emotion)と感情(affection)は概念的に区別されることなく、日本の心理学書では両者が曖昧に併用されてきた」4)。
例えばそれは、『感情』(ディラン・エヴァンズ 遠藤利彦訳・監修:原題『Emotion』.岩波書店,2005年)では、本文中は全て「情動」という用語を使用して議論しているが、表題について「やや専門的なニュアンスのある“情動”という術語ではなく、あえて一般的な“感情”という言葉を用いた」とするように訳者が配慮する場合もある。
このような「emotion」を「感情」に読み替えて使用する例は多く、一般に出回っている解説書はそれが慣例になっているようである。
しかし、情動(emotion)は、「原因が明らかで、始まりと終わりがはっきりしており、しばしば生理的覚醒(physiological arousal)を伴うような強い感情」(『感情心理学・入門』前掲書)と定義されており、背景的な弱い感情状態である気分(mood)などと共に、広義の感情(affect)に総称される概念として扱われている。
また、神経科学では喜び(歓喜)、悲しみ(悲痛)などの生理的反応を伴う情動(emotion)の意識的知覚が感情(feeling)とされるので、「emotion」は感情と矛盾する概念ではないのである。
本稿では基本的に情動を表す「emotion」は「情動」とするが、情動に対し感情の用語を使用する文献の引用部分に関してのみそのまま「感情」使用する。また、本文中使用する感情(affect)は、情動(emotion)、気分(mood)、主観的感情(feeling)など、あらゆる反応や状態を指すものとして厳格に区別していない。
以上、こうした人間の精神活動全般に関わる感情を、網羅的に捉えて定義することの難しさを踏まえて、「感情とは刺激に対する評価的反応である」と最低限押さえておくことにする。
2.基本情動(basic emotion)
基本情動とは、怒り、恐れ、悲しみ、喜びなど、進化のプロセスで自然選択によって生得的にプログラミングされた情動であり、ヒトの生存戦略のメカニズムとして重要な働きをしている。
基本情動の数は研究者によって異なるが、その理論的根拠の出発点をダーウィン進化論に置く。
ダーウィンは著書『人間と動物における情動の表出』において、「人間と下等動物が示す主要な表現は生得的ないし遺伝的である、つまり個が学習したものではない」ことを唱えた5)。
そして、ダーウィンが指摘する情動の生起と随伴する様々な生理的反応がヒトと動物に共通であるとする立場は、情動の中枢起源説に受け継がれ6)、ルバン・トムキンス(Sylvan
Tomkins)を経て、ポール・エクマン(Paul
Ekman)、キャロル・イザード(Carroll Izard)らの研究に繋がる。
基本情動を喜び、恐怖、驚き、怒り、嫌悪、悲しみの6つと考えるエクマンは、表情を表出した写真を様々な国の人たちに見せることで、情動を表す表情は通文化的にその理解の共通性があることを示した。
エクマンは、「顔の表情形態と自律神経系および中枢神経系の反応様式との間で一定の関係があるという実験結果を示し、感情は基本的な生存課題を処理するために進化してきたものであり、それぞれの感情の顔の表情と生理学的反応様式の関係は遺伝子に組み込まれ、適応上の課題解決に対して即効性がある反応を実現していると考えた」7)のである。
イザードは自身が開発した表情のコーディングシステムにより、興味・関心、愉快・喜び、驚き・驚愕、悲しみ・失望、怒り、嫌悪、不快・苦痛などの基本情動の表出は、子どもの7~8か月齢のうちに完成し、罪感情、羞恥・恥、軽蔑の3種類は8か月齢以後獲得するとした8)。
また、ジャーク・パンセップ(Jaak
Panksepp)は比較神経科学の立場でエクマンと同様の見解を示し、基本的感情にはそれぞれ固有の脳神経回路が存在すること、また人と動物は基本的感情の神経基盤をある程度共有していると指摘している9)。
そして、殆どの基本情動論者は、基本情動をブレンドまたはミックスした結果として生じる非基本的な情動があると考えている。
イザードは、不安とは恐怖と他の2つの情動(罪悪感、興味、恥辱、怒り、悲痛のうちのどれか)の組み合わさったものとし、ロバート・プルチック(Robert Plutchik)はさらに進んだ情動混成説を唱え、基本色を混ぜると新しい色ができるという色のサークルと類似した情動のサークル(環)を作った10)。
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(ジョセフ・ルドゥー:エモーショナル・ブレイン.p.138,東京大学出版会,2003年.) |
いずれにせよ、怒りや恐れ、嫌悪や驚きといった情動だけではなく、恥や道徳的怒りなどの複合的感情も、人類の社会的関係を支えるための、言葉以前のコミュニケーション手段として進化したと考えられる11)。
そして、情動や感情が個体間の社会的関係を調整する役割を獲得すると、今度はそれを制御しコントロールする必要が発生12)し、より複雑な感情状態が生じるようになったのである。
3.感情の神経科学的基盤
神経科学では、感情は情動反応の意識的知覚であるとする。情動反応を誘発する重要な脳の部位は扁桃体である。
同時に扁桃体によって誘発された情動反応は、環境への適応のために前頭皮質によって適切に制御され調整される。
以下、感情の生起に直接かかわる情動反応の脳内メカニズムと前頭前野の制御機能を概観してみる。
1)情動と感情
神経科学において情動と感情は明確に区別される。
『カンデル神経科学』(エリック・R・カンデル他著,金澤一郎他監修:メディカル・サイエンス・インターナショナル,2014年)によると、情動は「脳が何らかの困難な状況を検出した際に、ほぼ無意識的に生じる生理的反応群に対して用いる。これらの自動的な生理的反応は脳と身体の両方で生じる。脳の反応としては、覚醒度と認知機能(例えば注意や記憶の処理、意思決定戦略など)の変化を含む。身体面では内分泌、自律、筋骨格系における反応を含む。」とする。
感情は「これらの身体的および認知的変化の意識的経験を指して用いる。ある意味で感情は、情動状態によって生成された生理的現象の表現として、われわれの脳が作り上げた報告書といえる。」とし、この2つの状態を常に区別する必要が強調される。
そして、「情動は脳がポジティブあるいはネガティブな意味をもった刺激を検出した際に誘発される、自動的で大部分が無意識的な行動・認知反応である。感情は情動反応の意識的知覚である。」とまとめられている。
この情動刺激を検出して情動反応を誘導するのは大脳辺縁系にある扁桃体である。
2)扁桃体
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(リタ・カーター:新・脳と心の地形図.p.131,原書房2012年.) |
扁桃体は側頭葉に左右一つずつある小さな器官で、主に基本情動に関わる情動的刺激の検出・出力をする。
自分にとって対象が危険か有害か、良いか悪いかなどの評価判断をして、行動の準備に必要な生理的反応を指令するという、生物の生存にとって重要な働きを担っている。
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(新・脳と心の地形図.p.152) |
「扁桃体は脳の警報装置の役目を果たしていて、脅威にさらされるとき、生き残るうえで役に立つ精神状態を作りだす。扁桃体のある部分を刺激すると、典型的な恐怖反応、つまりパニックになって逃げだしたい感情が生まれる。別の部分を刺激すると、『ふんわりした温かい感じ』になって、なれなれしい行動が見られる(懐柔)。さらに、怒りが噴出する第三の部分もある。逃走、闘争、懐柔という三大生きのこり戦略を引き起こすメカニズムが、小さな組織ひとつにまとまっているのは、戦略間ですばやい切りかえを行うためである。」13)とあるように、危機に際しての扁桃体の役割は極めて重要である。
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(エモーショナル・ブレイン.p.195) |
「外界からの刺激に関する情報には、視床から直接扁桃体へ行くもの(低位経路)と視床から皮質を経由して扁桃体へ行くもの(高位経路)がある。直接の視床扁桃体路は、視床から皮質を通って扁桃体へ至る経路に比べて短く、より速く伝達する。しかし、この直接の経路は皮質を経由しないために、皮質の処理の恩恵を受けることができない。この結果、直接の経路では、その刺激の大まかな表現しか扁桃体に伝えることができない。したがって、直接の経路での処理は速いが、粗雑である。直接の経路は、その刺激が何であるかを十分に知る前に、危険を示す刺激に対して反応することができる。これは危険な状況下ではたいへん有用である。しかしこれが利用されるためには、皮質路が直接路の上に載っていることが必要である。直接路が、われわれの理解していない情動反応を調節しているということもある。」14)
情動の制御が常にうまく行くとは限らないのは、もともと脳の回路では大脳辺縁系(情動系)から新皮質(認知系)に上がる情報のほうが逆方向より多く、つまり情動をつかさどる部分の方が、合理的な部分よりも行動への影響が強いからである15)。
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(新・脳と心の地形図.p.151) |
このことから、意に反する情動反応における自動的な生理的反応を抑止することは極めて難しいと言えるが、やや遅れて前頭皮質が抑制的に働いて状況を適切にコントロールすることは可能である。
実際に怒りによる身体の反応は臨戦態勢による攻撃の準備であるが、現代社会のコミュニケーションにおいては、それがそのまま表出されることは不適切であると判断されるため、攻撃行動は抑制される場合の方が多い。
注意すべき点は、扁桃体は非意識過程のうちに情動的刺激を検出して処理するだけなく、無意識下でも評価を伴う心的事象を記憶し、それを蓄積させているということだ。
しかも無意識の記憶は非常に強力でそれを意識的に取り除くのは難しいとされる。特に強いストレスを受けているときは、ストレス下で放出されるホルモンや神経伝達物質が扁桃体の興奮をさらに高めるため、無意識の記憶は形成されやすく、意識的な記憶の処理にも影響を与えるという16)。
「ルドゥー(注:ジョセフ・ルドゥー:『エモーショナル・ブレイン』の著者。情動反応における扁桃体の役割を最初に発見した神経科学者として知られる。)は、扁桃体が無意識の記憶をためるのは、海馬が意識的な記憶を定着させるのと同じ方式ではないかと考える。過去のことを思いだすとき、海馬は意識的な記憶を呼びだしているのに対し、扁桃体を基本としたシステムは身体的な記憶を思いだす、つまり心臓をどきどきさせたり、手のひらに汗をかいたりといった当初の体験を再構築するのである。記憶がある程度の強さで扁桃体に焼きつけられてしまうと、もう自分の意志で抑えることはできない。身体が反応して、感覚が完全にリプレイされながらトラウマを再体験することになる。」17)
こうしたPTSD(心的外傷後ストレス障害)の状態では、扁桃体に根づいた無意識の記憶が、その原因となった特定の体験とのつながりを持たずに突然押し寄せてくることにもなるのである18)。
皮質の評価が介在しない粗雑な扁桃体の記憶や情動反応が、直面する状況に不適応を起こすことは十分に考えられる。
私たちがストレスを溜めて皮質の機能を低下させているとき、しばしば感情のコントロールがうまく行かなくなるのは、扁桃体の指令を抑制し切れなくなるからだ。
恐怖の刺激に継続的に晒されることで、実際の情動的刺激がなくても過敏に反応してしまう恐怖症を発症するのも、扁桃体の記憶が関わっている。
また、扁桃体は生存に直接かかわる生物的評価をするだけでなく、社会生活に適応するための社会的評価も行っている。社会生活上必要なコミュニケーションや関係性を維持するために、相手の感情状態や意図を知る手がかりとなる顔の表情を情動的刺激として検出しているのである。
これは「友好的な他者を選んで近づいたり、害をもたらす可能性のある他者から遠ざかったりするための社会的能力の一つであると考えることができる。」19)
しかし、そうした扁桃体の社会的評価は、潜在的な偏見や差別感情を生みだすことにも繋がる。
例えば、白人にランダムに白人と黒人の写真を見せたときのfMRIによる研究において、意識レベルでは黒人に好意的な白人においても、黒人の顔写真を見せると扁桃体の活動が高まることが報告されており20)、理屈では差別が悪いことだと分かっていても、潜在意識レベルの否定的な構えまではなかなかコントロールできないことを示している。
扁桃体のサブリミナル(閾下)知覚や潜在認知が当人の無自覚、無意識のうちに思考や行動に影響を与えているのである。
3)前頭前野の感情生起と制御21)
前頭前野は思考、言語、意思など知的な高次認知機能のほとんどに関連する領域であり、感情においても重要な役割を担っている。
中でも、前頭前野と唯一扁桃体と直接的で密接な神経連絡をもっている前頭眼窩野は、特に感情との関連が深い部位である。
前頭眼窩野が扁桃体と異なるのは、扁桃体が重要な感情刺激を速やかに検出するのに対して、刺激と、それに対する行動、さらにはその行動の結果の良し悪し、の関係を監視し、その評価に基づいて行動を長期的に制御していく機能があることである。
また、社会的ジレンマと呼ばれる一種のゲーム課題を行っているときのプレーヤーの脳活動をfMRIで計測すると、前頭眼窩野と快感情に関係が深い腹側線条体に強い活動が見られた。
この結果は、短期的な利益を追求して利己的な行動に走る衝動を抑制して、それが成功した場合に快感情が生まれ、そうした快感情が人間同士の協力関係を維持するように働いていることを示唆する。
前頭眼窩野は、そのような社会的なこころの営みを担っていると考えられる。
一方、感情が社会環境に適応的であるためには、本来危険でない刺激に対しても過敏に反応しやすい扁桃体の活動を適切に制御する必要がある。
一般に脳を構成する神経細胞は、何も刺激が入力されなくても自発的に一定の頻度で活動しているが、扁桃体の神経細胞は、そうした自発的な神経細胞が特に少なく、暴走しないように、常に抑制的な制御をかけられている。
そのブレーキの機能を担うのが、腹外側前頭前野である。
不快な感情に関連した単語を呈示すると、健常者では扁桃体の活動が高まるものの、前頭前野の活動により、それは速やかにもとの活動レベルに戻されたが、うつ病患者では、不快な意味をもつ単語に対する扁桃体の活動レベルが高いだけでなく、活動が長く持続することが明らかになった。
このような感情制御の不調が、うつ病の症状を引き起こしていると考えられる。
また、感情は前頭前野によって意図的にも制御される。外側前頭前野と前頭眼窩野がその役割を担う。
外側前頭前野は、行動の目標を維持する部位で、感情的刺激が知覚されれば自動的に感情反応が起動されてしまうのを制御しようとする目標維持に関係していると考えられている。
そして、前頭眼窩野は行動のその結果の長期的な良し悪しの評価に基づいて意思決定を行う部位であるが、過去の経験などに基づいて効果的な自らの感情を制御する方法を選び出していると考えられる。
意図的な感情制御とは、意志を担う前頭前野の複数の部位によって、感情を起動する扁桃体の活動を調整しようとする営みに他ならない。
従って、私たちの複雑な感情状態は、扁桃体の自動的で鋭敏な情動反応と、前頭前野による制御のメカニズムによって作り出されていると言える。