2016年2月5日金曜日

はじめに(序論)

 私たちは普段さまざまな感情経験をしているが、現代人にとって感情は、目的遂行の妨げとなったり、抑制できなくて失敗に繋がったりと、どちらかと言えばネガティブなイメージを持たれやすいのではないだろうか。
 
 しかし、感情を機能面でみると、感情が人間の行動や生活に対して妨害的に作用していると考える立場の感情有害説と、感情が人間の行動や生活に役立っていると考える立場の感情有用説があり、今日では後者の立場が優勢になっている1)という。

 私自身は、本稿の「人間の思考と行動における感情の作用」をテーマとした当初の段階では、感情が有害であることを念頭に置いていた。
 それは、日常的にインターネットを活用する中で、様々なレベルでの発信や議論での過剰な感情表出や、短絡的な原因帰属による決めつけ、根拠の希薄な主観的な主張などを目にする機会が増大したことによる。
 感情の介入による論理的思考や理性的行動への悪影響が、問題解決の弊害になると考えていたのである。
 そして、その弊害を取り除くために如何に感情を適切にコントロールするか、どのようにクリティカルな思考力を身につけるかを問題意識として文献学習を始めることになった。

 実際に、感情に起因する人間関係や社会生活上のトラブルは少なくないと思われる。
 ヒューリスティクスによるミスが、日常的な些細な事から重大事案に至る損失に繋がることもある。
 また、感情を抑制できずに凶悪犯罪や紛争など暴力に発展する事例が日々国内外のニュースで伝えられてくる。
 そして、感情の障害による精神病理や、誰もが経験する不安感情、抑うつ気分など、物事がうまく行かなくなったり、社会に適応できなくなったりといった、感情が有害に作用するケースがまず思い浮かんでくるのである。

 しかしながら、そうした弊害をもたらす感情の機能やメカニズムを調べ始めると、妨害因と思われていた感情がむしろ人間の環境への適応において必要不可欠であり、動機づけや自己保存にとって重要な役割を果たしていることが分かってきた。
 また、非合理的とされる感情が認知プロセスに作用することで、人間は合理的に判断して支障なく生活が送られると考えられている。

 こうした感情の働きを捉え、感情有用説は、「感情が生物学的生存または社会的生存に関係するさまざまな課題を解決し、個人の生存と集団生活の維持・促進に役立っている」2)と仮定している。

 この感情有用説は、脳神経科学や感情の進化論など近年の感情研究の成果が背景となっている。
 例えば、神経科学分野では、感情を生起する脳の部位の損傷により、本来回避すべき危険なものに近づいたり、将来の予測や決断が困難になったりするという事例を報告しているが、これは感情の機能が人間の自己保存や認知活動と相関することを示すものである。
 また、進化心理学では、喜びや怒りや恐怖といった感情は、長い生物進化の自然選択によって形成された生得的なものであり、人類が生き延びるための生存のメカニズムとして発達したと考える。
 つまり、感情は人間の生物学的生存と社会的生存に関わる課題の解決のために、環境と相互作用しながら進化し、そしてまた人間を人間たらしめる脳を進化させてきたと言えるのである。

 このように感情は生存戦略のメカニズムとして機能することで、想像をはるかに超えて人間の思考と行動に強く影響を及ぼしていると考えられる。
 現代社会に数多く存在する有害と受け止められる感情現象も、単に感情が有害か有用かの二項対立のどちらか一方に還元する議論ではなく、そのメカニズムによる適応への課題解決のプロセス上の現象として捉え直す必要があると思われる。
 今なお進化の途上にある人間の環境への適応能力とその限界を知り、感情を持つ生きた人間の思考と行動を理解することは、現代人が抱える感情に起因する適応上の問題を解決することにも繋がるはずである。

 「感情の理論は、感情を脳神経の構造や機能の還元できるとするものから、感情は社会的・文化的に構成された心的現象であるとするものまで、幅広く提案されている。多数の理論が存在するということは、感情がいかに説明しがたい複雑な現象であるかを物語っており、感情の研究が発展途上であることを意味している。」3)とあるように、感情の研究は様々な研究対象について多くの研究者による異なったレベルと視点によってアプローチされているので、どれか一つの立場からみて感情を理解することは不可能である。
 感情の定義も概念や用語についても研究領域によって統一されておらず、相補的な部分もあるがそれぞれの立場が独立的で、複数の立場から多角的にアプローチすれば直ちに全容が見えてくるというわけではない。

 本稿では、感情を生存戦略のメカニズムと捉える観点に立ち、それが人間の思考と行動にどのように作用しているかを神経科学的基盤と進化史的発達を概観する中で明らかにしていく。
 そして、それが現代人の思考や行動をどのように規定し、適応のあり方に影響を与えているかを考察するものである。以下、感情心理学、神経科学、進化心理学、行動経済学などに関する文献研究により掘り下げていくことにする。