2016年2月5日金曜日

第2章 感情の適応プログラム

1.感情の進化

 感情は長い進化のプロセスで、人類が生き延びるための環境への適応プログラムとして発達した。
 「感情の本質は感覚ではなく、危険から遠ざかり、利益になるものに近づこうとする生存のメカニズムである。感覚の部分は、そのメカニズムの精神的な側面であり、基本の仕組みが高度になったものに過ぎない」22)のである。

 人類の生物進化の軌跡は、解剖学者ポール・マクリーン(Paul MacLean)の唱えた仮説である脳の三位一体構造に刻まれている。
 それは、生命と本能の中枢である大脳基底核(爬虫類脳)、感情の中枢である大脳辺縁系(哺乳類脳)、理性の中枢である新皮質(新哺乳類脳)の三つの脳が一体となって階層性を持ち、ヒトや他の霊長類、高等哺乳類の大脳に共通している。


(中島義明他編:新・心理学の基礎知識.p.244,有斐閣ブックス,2005年.)
 
 これは、「ヒトの行動といえども基本はR-複合体(注:大脳基底核や淡蒼球、尾状核黒質などが含まれる爬虫類脳)で処理される生命維持活動と、大脳辺縁系で処理される情動活動に支えられているのであり、新皮質が最上部構造であるにもかかわらず理性は感情に、感情は本能に支えられているという構造を持っている」23)ことを意味する。

 脳の三層構造の形成は、感情の進化との相互作用が考えられる。これを、『新・心理学の基礎知識』(中島義明他編:荘厳舜哉,有斐閣ブックス,2005年)と『文化と感情の心理生態学』(荘厳舜哉著,金子書房,1997年)の文献から引用しながらまとめてみることにする。

 まず、爬虫類脳である大脳基底核が、接近―回避や闘争―逃走などの自己保存を目的とする行動や、繁殖機会を求めての求愛や優劣順位などを決定する原始的ではあるが個体間の社会関係を調整する司令塔の役割を獲得する。
 
 次に、哺乳類脳の大脳辺縁系が、血縁間の利他行動と集団内の互恵的利他性を促進する目的で出現する。
 子どもの養育における親子の親密な情動の絆や、コミュニケーション手段としての音声、種や群れの社会生活のルールの学習など、情動に基礎をおいた新しい行動が生じたことは種の社会進化に大きく貢献することになった。刺激を認知的に評価して個体間関係に特別の意味を持たせ、社会的関係を情動で価値づける道が開けたのである。
 
 更に、集団構成員数の増加に伴う、より複雑化した社会的関係を処理するための思考力が必要となり、ついに新哺乳類脳の大脳新皮質へと進化が推し進められていく。
 大型肉食獣のような力を持たなかった霊長類は、集団の団結こそが個体の生き延びる手段であり、その集団をまとめ維持するには、多様な社会的関係の形成と、それに伴う感情の調整や制御が求められるようになった。
 意志の中枢である新皮質、特に前頭葉質に依存を強めた人類は、哺乳類の攻撃を抑止するための生得的制御機構を脆弱化させたかわりに、他のヒト科霊長類にはない特殊な感情――道徳的怒り、感謝、同情、罪感情、懐疑、恥や羞恥心、共感など――を進化させ、多様な社会的関係の調整を補ったと考えられるのである。
 
 そして、これらの感情は人類進化に大きな役割を果たすことになる。
 包括適応度を高める血縁間の助けを起源とする利他的行動は、自分がコストを負担しても縁もゆかりもない他個体を助けるという、社会集団全体にまで適応範囲を広げた互恵的利他行動を作りだすに至るのである。
 この互恵的利他行動の確立には、脳の機能が関係しており、相手からの感謝や仲間の賞賛などの心理的報酬に結びつく時にドーパミンが大量に分泌されるという、報酬系の自己刺激によって強化されたと考えられる。

 こうして人類は、集団の中で互いが助け合う行動を獲得し、向社会的行動を進化させた。
 「ホミニゼーション(ヒト化)と情動、あるいは感情はこうしてつながり、人類が今日のような文化を育む素地を作り上げたのである。」24)

 以上、脳の階層的発達と感情の進化のプロセスを概観したが、野生環境での人類は集団生活を営んで生き抜くために、生物進化の中で備わった基本情動を適応的に制御しつつ、より複雑な感情を形成していったことが分かる。
 
 次に、こうした生存戦略のメカニズムとしての感情が、現代に生きる私たちの思考や行動にどのように影響しているかを見てみる。


2.野生環境と文明環境

 感情の進化は、人類の祖先がジャングルから草原に出たことがきっかけになっているという。
 人類が約200万年前から1万年前まで100人規模の共同集団を営み狩猟採集生活を送るようになる頃には、チンパンジーにはないような感情や行動、例えば感謝、恩や義理、罪悪感、名誉、公平感、嫉妬などの感情が形成されていたとされる25)

 しかし、1万年前の野生環境に適応的だった感情システムを、現代社会にそのまま適合させるのは難しいと考えられる。その辺りの不適合について、『感情』(戸田正直著,東京大学出版会, 1992年)では以下のように解説する。


 感情は、感情の起源となる逃走、脅かし、攻撃といった「状況対処行動」のシステムとして何億年という年月をかけて動物の種の進化と共に進化し、その間に大きなシステム的拡大と複雑化を達成してきたものと仮定して、野生環境の特徴に適合した適応行動選択システムとして高度の野生合理性を持っていたと考える。そして、各人がそれぞれの感情に従って行動していることで人類の種としての生き延びを保証するにほぼ十分であったと推測されるが、それが現代においては感情システムが必ずしも生き延びに有利に働いているとは言えない。それは、野生環境から文明環境へと環境の基本条件をがらりと変えてしまったことに対応して、本来環境の変化に応じて感情システムも当然さらに進化して文明環境の適応行動になるはずが、人類が文明化した農耕開始からわずか1万年という短い時間スケールでは殆どその変化が見られないことによる。人間の環境こそは文明化したが、心の文明化はそれにほとんど伴っておらず、人間の心の基本的特性は私たちの祖先が森林やサバンナをさまよっていた時代と本質的に変わっていないと言え、このことの意味は「きわめて重大」、と指摘している。

 つまり、現代の私たちは1万年前から殆ど進化していない野生環境に適合した感情を身につけたまま、文明環境に生きているということになる。
 それが今日の社会では、ある種の感情が露わになると問題とされ、感情が有害とされる部分であると思われる。

 特に第一章の扁桃体のところで述べたように、怒り、恐怖などの基本情動は、前頭皮質が探知する前に情動的刺激の検出によって自動的に反応をして臨戦態勢を作るという、元来野生環境における脅威的状況で生き延びるために相応しい感情システムである。
 それが、文明社会のそうした脅威を人為的に制御し、緊急状況の頻度を著しく低下させた環境特性に対しては、有利に機能するとは限らない。脅威も緊急性もない対象にまで臨戦態勢を作り出し、意識的な思考を中断させ、非適合的な行動を引き起すなど、目的遂行の妨害因にもなってしまうのである。

 しかし、感情は心の働きのモジュール(要素)として、別々の自然選択の進化的経緯で個々に形成され、一つの心に同居していると考えられるが、いずれもその感情があることによって、繁殖に有利で個体の適応度の高い特性をもつ遺伝子が世代を経るにしたがって増えたとするのが進化論的な考え方である。
 それぞれの感情は、至近要因として心理メカニズムが説明されるだけではなく、究極要因として、なぜそのようなメカニズムが進化の歴史で機能してきたかが説明されることによって、人類がその感情を獲得してきた意味を捉えることができるのである。
 
 では、基本情動の中でも現代社会では「恐怖」と共に非適合的になりやすい「怒り」には、どのような進化論的な意味があるのだろうか。それを同じく、『感情』(前掲書,p12-13)から引用してまとめてみる。

 「怒り」の感情は動物の「縄張り」防衛行動に発する。「縄張り」とは種が遺伝的に共有する行動の「ルール」を意味する。このルールを守り守らせようとするのは人間の感情の働きの中でも特に重要なものの一つである。野生動物の場合、縄張り侵入者に対して然るべき「罰」を与える必要がある。野生動物にとって罰を与える唯一の方法は攻撃を仕掛けることであるが、その場合、「脅かし」の姿勢を見せることで「警告」し、それでも立ち去らない場合に攻撃を加えることになる。人間の場合の怒りは、家とか国という形で集団的に空間的縄張りを作るが、人間が作った実質的な縄張りの大部分はむしろ自分の「権限の範囲」といった見えない縄張りであることが多い。この権限の範囲の社会的ルールを持つことによって無益な紛争を減らす一方、権限的縄張りを侵害するものに対して怒りを起動する。怒りの攻撃準備の身体的変化は警告として十分機能するが、人間は「とがめ型」の言語的警告がなされる場合が多い、という。

 また、『人は感情によって進化した』(石川幹人著,ディスカヴァー携書,2011年)によると、「怒り・威嚇➡意気消沈」という心理的対応が生まれたことで、「権利を守る」という社会制度の確立に向かわせ、互いの権利を認め合うようになっていた狩猟採集時代には、「意気消沈」が「罪悪感」という固有の感情に発展したと考えられるという。そして罪悪感は謝罪するという行為を促し、次に謝罪された者はゆるしを与える「謝罪➡ゆるし」という心理的対応がともなうようになり、結果的に権利の調整が進み、人間集団での協力が飛躍的に拡大したと推測する。つまり、怒りの感情はたしかに戦争の源になっているが、一方で公平さの追求や社会的ルールの順守に貢献していると考えられるのである。

 しかし、『感情』(前掲書)では更に言及し、「怒り」ほど、私たちが頻繁に日常的に経験している感情は稀だろう、という。
 なぜなら怒りの機能がうまく働くためには、動物の縄張りのように、ルールの解釈についての当事者同士の明確な一致が存在することが前提となるが、狩猟採集社会の少数の社会ルールは十分単純明快で解釈の曖昧さも少なかったのが、現代は膨大な社会ルール群が存在してその中での整合性が欠けてくるからである。
 各人が当然のこととして自分の都合のいいようにルールの解釈をし、各人が認知する自己権限の範囲もお互いに重複してしまい、ある人間にとって当然と思われる自己権限行使が別の人間には自分の権限侵害と認知されることが頻発する。権限侵害を認知した方は怒りを催すが、相手にとってもそれが不当な怒りであるから、「罪悪感」を感じるどころか逆に「怒り」を催すことになる。
 そこで、「怒り」に基づく攻撃的加罰機能は社会ルールによって抑制され、可罰機能は現在大幅に損なわれたが、怒りの表出による「警告」機能の方はますますその重要性を加えている、という。
 たとえ直接的な攻撃が禁止されても、あまり頻繁にある相手を「怒らせる」と、その相手は自分に対して「憎しみ」という「待機的態度」を持ち、何とか社会のルールに触れないで自分に可罰する機会を伺う危険がある。
 したがって現代における「怒り」の役割は主として『ここは自分の権限の範囲だ』という、いわゆる臭い付け的「情報」の発信にあり、この発信がまた年中必要なために、現代人が「怒り」を感じる頻度は野生人と較べて多分比較を絶して多いのではないかと想像される、というのである。

 この現代人の「怒り」についての考察はとても興味深い。現代人が抱える慢性的ストレスやフラストレーションの一端を見るようである。
 特に、人間が作った「『権限の範囲』であるところの見えない縄張り」という捉え方は、様々に解釈が可能であると思われる。
 例えば、考え方や価値観が対立する議論でぶつかり合うとき、しばしば「怒り」の際に発動される臨戦態勢の身体反応が自動的に作られるのも、論「敵」に対し、個人の感情や思考の内的世界の領域や自分の影響力の及ぶと考える範囲といった他者からは「見えない縄張り」を侵害してくる脅威とみなしてしまうからであろう。
 これは明らかに情動系の過剰反応とも言えるのだが、既に人間にとっての「危険」や「脅威」は、自尊感情を損なうことや社会的に自己の評価が下がることであり、それは現代人にとっての「恐怖」なので、そうした「見えない縄張り」を防衛し、脅威に晒されないための確認・維持活動が常日頃の仲間同士や、コミュニティーでの情報発信につながっているとも考えられる。
 それがネット上の数多くの主張的自己呈示(好意獲得、自己宣伝、威嚇)26)の背景の一つになっているのかも知れない。

 いずれにせよ、進化論的にみると、「怒り」の感情が社会に公正さを求め、様々な社会システムの構築に向かわせる強い動機づけとなり、向社会的な行動の促進に役立っていることが理解できる。
 むしろ、「怒り」の直接攻撃行動が高コストのために「無行動」が採用された場合の潜在的怒りであるところの「憎しみ」の感情こそ、怒りそのものよりも現代社会の最も厄介なる有害に作用する感情と考えられる。